ツッコミをいれる人やいじり役の人の資格があるのは、時には逆の立場、ツッコミをいれられたりいじられて笑いをとれる人だと思う。常時どちらか片側に立ち続けてしまうと良からぬ精神状態になる。私の周りで心地の良い笑いを提供してくれる人達はこのバランス感覚がずば抜けているのだ。いじられて笑いをとる形は一見笑われているだけの様に感じてしまうのでかなり勇気のいる技法だ。しかしながら賢い人ならそれをちゃんと理解してくれることだろう。そして評価をしてくれるだろう。それが出来る人がもっと増えて欲しいと思う。
「笑」「ユーモア」の授業ってのは未だに学校で受けることができない。前述した様な人が増えにくい世の中だ。だからこそ画面に映った表面的な「笑」にだけ腹を抱えることなく、その奥にあるものにも時には目を向けて欲しい。そして機会があればその場にいる全員、誰1人傷つけることなく笑いを掻っ攫っていって欲しい。ほんと切に願う。
笑は大切だからね。
無駄な1日。それは笑いの無い日である
チャーリー チャップリン
コメント
大学の比較思想の授業で、哲学者ベルクソンを用いて「笑いの哲学」というのがありました。先生はセメスターによって題材を変えていたので、「笑いの哲学」の授業に出られたのは良い経験でした。
ベルクソン曰く、笑いの発生には以下の条件があるようです。
・対象に人間味を持つこと
例えば対象が猫だとすれば、その猫がもし人間だったらと想像することらしいです
・対象に利害関係を持たないこと
例えば猫がスプリングスの空き容器に頭を突っ込んでもがいていたとして、「うわ、猫ちゃんが可哀想」など感情を移入しないことらしいです
・対象と共感を持つこと
自身と対象が共通の世界にいるといいますか、「あ、空き容器に頭を突っ込んだ猫がいる」と認知して「容器の口径はnセンチだから、あと後方にm回動けば~」など知性による考察を挟まないことらしいです。対象を、「ただ単にそこでもがいているなぁ」と無関心だと条件を満たさないようです
また、ベルクソン曰く、「機械的な強ばり」も笑いに繋がるようです。機械的な強ばりは「ぎこちなさ」らしく、例えるならば、壇上でスピーチをする言葉がつっかえつっかえだったりすることらしいです。滑らかに淀みなくスピーチが行われるであろうという理想形から、言葉のつっかえによってぎこちなさが生まれて笑いになるのだとか。
更に、授業で言っていたのが、浅田真央や高橋大輔が氷上で華麗なスピンを披露してもストロボ連写で撮影したうちの一枚だけを切り出すと、物凄い表情になってそれも強ばりによる笑いになるらしいです。YouTubeでアーティストが熱唱している動画を見ようとしても、ランダムに凄い顔のときがサムネに選び出されて笑えるような感じです。
また、同じ授業で別の資料を用いました。ショーン・コネリー主演の「薔薇の名前」という映画です。映画のワンシーンに、無教養な貧困層が糞を浴びてしまったシーンがあります。そのシーンで、「笑いは自身より劣った者を笑うことで生まれる」と伝えられました。
笑われる対象は笑わせようが笑われようが、ツッコミより重労働なことは確かです。傷付けずに笑いを獲るのは存外、至難の業のようです。